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イメージを大事にした男と、リアルを大事にした男(1/2)


著名人の訃報が相次いだ2015年

 年の瀬になると増えるのが喪中はがき。今年は少ないだろうと勝手に思っていたが、案に相違して逆に多かった。
 ところで、この喪中はがき、私は一度も出したことがない。父の時は暮れも押し迫った25日に亡くなったということもあり、いつも通りに出した。すでに投函した後だったということではない。その頃は年末ギリギリか年が明けてから年賀状を書いていたので、いつも通りに出した。妻の時もそうだった。
 玄関に「忌中」と張り出すこともしなかった。我が家は仏教と違い神道だから、死後は神様として祭られる。「忌」はない。すべて祭りである。だから、喪中はがきを出さない、というわけではない。喪には服すが、それはごくごく私的な、内々のことで、敢えて人様にお知らせする程のことではないと思っているだけだ。それともう一つは、「今年は年賀状が1通も来なくて寂しかった」という声を過去に聞いたことがあるからだ。

 それにしてもいつ頃から喪中はがきを出す風習が広まったのだろうか。昔からあったわけではない。広めたのは印刷業界だと耳にしたことがある。不況で企業からの大口発注が激減した数10年前、業界の生き残り策を模索して個人客の開拓に動き、仕掛けたらしい。
 頭のいい人がいたもので、以後まんまとその策略に乗せられている。といって、それを非難しているわけではない。むしろ感心している。発想を変えればビジネスの種はどこにでもあるものだ、と。

 ところで今年ほど有名人が相次いで亡くなった年はないだろう。直近だけでも高倉健、羽仁未央、中島啓江、松本健一、菅原文太、呉清源の各氏が他界した。
 羽仁、中島両氏は50代とまだ若かったが、呉清源氏は100歳。囲碁界では有名で棋聖と称された人だ。羽仁未央氏は羽仁五郎氏のお孫さんで、我々世代にはある種の郷愁を呼ぶ名前。オペラ歌手の中島啓江さんはずっと「ひろえ」とお読みすると思っていたが、今回はじめて「けいこ」だと知った。
 多少馴染みがないのが松本健一氏ではないだろうか。私と同世代の大学教授、評論家で、北一輝の研究で早くから知られていた。民主党政権下で内閣官房参与を務めたから、もしかすると知られているかもしれないが。

夫人の報告文に感動

 訃報に接して感動した(と言うのはおかしなことかも分からないが)のは菅原文太氏。彼というより、彼の奥様、文子さんがマスコミ各社に送ったFAXの内容に、である。
 以下、引用してみる。

[七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
 恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。]

 よく見かける訃報の報は、どちらかといえば通り一遍、当たり障りのない文面で、所属事務所か家族から流れてくることが多く、それで分かるのは、どのような病気その他で、いつ亡くなったのかということと、後は個人が好きだった言葉、座右の銘的な言葉を1行入れたようなものだ。
 夫婦、家族と言っても生活を共にしていた程度、といえば怒られそうだが、深く伴侶の考え方、生き方を理解している相手はそう多くはないだろう。むしろ亡くなった後に仕事仲間、遊び仲間、友人、知人から故人の言動を伝え聞き、そんなことを考えていたのか、そういう一面があったのかと後で知ることの方が多いのではないだろうか。
 しかし、菅原夫人は夫のよき理解者、というより同志的な存在だったように思える。少なくとも私にはそう感じられた。と同時に文太氏がとても羨ましく思えた。
 一説には「奥さんに頭が上がらなかった」とか「奥さんの言うがまま」みたいなことも言われていたが、他界直後にこういった文章を書いてくれる伴侶なら、言われるままでも、尻に敷かれていてもいい。私ならそう思う。
                                               (2)に続く

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